古代中国の占星術に『分野説』がある。地上の国郡と天上の星座が対応するという考えだ。古代日本でも天を地上投影する試みがなされたのではないか?
いつ?だれが?何のために?
ヒントとなるのは精緻な星図としては世界最古といわれるキトラ古墳天文図や、高松塚古墳の星宿図だ。両古墳の築造は7世紀末から8世紀はじめといわれる。
『天文遁甲』よくし、『陰陽五行』に優れていたといわれる天武天皇の時代と重なる。天武天皇は国内初の占星台を設置したことでも知られる。
天についての情報といえば、星図がなくてはならないはずだ。キトラ古墳の天井天文図を描くにも、その原図はあったはずだ。
その原図については現在のところ不明であるが、『四神・二十八宿』を重要視していたことは、両古墳の星図からも認めることができるだろう。
天の星と星を線で結んで星座をつくるように、地上でその役割を果たしたのが名神大社をはじめ、古来より霊験あらたかとされる官社ではないか?
天武天皇は、天神地祇を祀る天社・国社~古代官社を整備したことでも知られる。
神社を結んで天を表す『四神・二十八宿』を表現しようと考えたのではないか?
分野説の実践である。天の星々にあたるのが『神社』ではないか?
淡路・阿波には心宿・尾宿(さそり座)
このように特徴的な星座と見なすことはできないだろうか?
二十八宿すべてを現在、同定はできていないが、若狭彦神社-熊野本宮大社ラインが夏至点、出雲大社-伊予神社ラインを冬至点ではないかと考えている。
だとすれば、九州は北方七宿(ぺガスス座など)に対応するか?
配置から、東国には北天の星座が対応し、やはり官社を結んでできる四神の図像『玄武』と重ねようとしたのではないか?
同じく大鳥大社を中心とした『朱雀』の図像には黄道の星座『二十八宿』や三垣の『太微垣・天市垣』を重ねようとしたのではないか?
現在、四神の図像としては六角形を亀甲と見なし、黄金三角形をベースに作られる稲妻型の蛇で表した北の守護神『玄武』と、大鳥大社を中心とした2つの大きな三角形を翼に見立てた南の守護神『朱雀』の図を『神社がつくる星座』を重ねる器と考えた。
ところで四神の残り、東の『青龍』・西の『白虎』の図像はあるだろうか?
これは今のところまだわからない。
南北のみの可能性もある。(南北軸の重視・縦長の日本列島の地形など)
天武天皇は『赤』を重視していたことや、元号に『朱鳥』が使われていることも、関連があるかもしれない。
星図を『三垣+四神二十八宿』で表すようになったのは隋、または唐の時代ともいわれるが、そのような最新の星図は暦と共にやはり遣唐使により運ばれたのだろうか?
キトラ古墳天文図や高松塚古墳星宿図には『三垣』の表現は認められない。
個人的な考えだが【紫微垣】が毛野、【太微垣】が畿内(五畿)、【天市垣】が吉備に対応していると考えると、二十八宿の配置関係からもしっくりくるのだが。
さて、これらを行うためには星図のみならず、精緻な地図、神社リスト、測量技術、図像のデザイン力(表現力)、交通手段なども必要だろうし、果たしてそのようなことはできるのだろうか…
方法論はさておいても、確かに意味深なラインは多くある。
玄武や朱雀あるいは五行を表す五芒星といったの図像や星宿の配置のための基準線がおそらくあるはずだ。現在のところ半径約180kmの円の10等分線やベンチマークとなる移動することのない【霊山】を結んだ線に注目している。
黄金三角形をベースに五芒星・六角形を作成することができ、列島を連続する三角紋や亀甲紋で覆っているようにも見える。
呪術的な魔除け、結界的な意味もあるのかもしれない。
そして様々な意味を持つベクトルの収束点となる神社
これらの神社には特に興味を持っている。
古代の海人族安曇氏が関係するのか?シカやアズミに関係する地名がある。
さらに”列島全体”でも何かを表現しようとしたことも考えられる。
もしあるとすれば、それは何だろうか?
天からのメッセージを忠実に表そうとした天武天皇…大海人…
その情熱はハンパねぇ…